深川の花と史跡を訪ねて (第64回 歩こう会)

 今年最初の歩こう会は3月1日に横浜の「三溪園」を訪れ、遅めの梅見散策の後、中華街で昼食を兼ねた懇親会を予定していたが、2月中旬に幹事が軽い脳梗塞を患い、入院の仕儀となったため中止させていただいた。

 今回、改めて第64回歩こう会を実施することになり、4月12日(土)に都内江東区は深川の寺社や芭蕉の史跡などを訪ね、江戸の町屋の雰囲気に触れようということにいたしました。桜の季節は足早に過ぎたが、好天に恵まれて葉桜と新緑が目に鮮やかな午前9時に東京メトロ東西線の木場駅集合。地下鉄の1番出口にはちょっとした待ち合わせ場所があり、ほぼ満開の八重桜が二本、枝を広げていた。

 本日の参加者は総勢12名。福島さんが10分ほど遅れるとの連絡を受けたが待たずに、すぐ近くにある木場公園に向かった。ここは昭和44年に材木商や貯木場が新木場に移転した後、水と緑の森林公園として整備されてきたもので、平成6年に現在の姿で開園されたもの。総面積24.4ヘクタールの広大な園庭にふれあい広場・噴水・都市緑化植物園・バーベキュー広場・イベント池・ジョギングコースなどが整備されている。

 北と南に分かれており、仙台堀で区切られていて木場公園大橋が南北をつないでいる。この橋とスカイツリーが丁度重なって見える場所で集合写真を撮り、引き返そうとしたところで福島さんが追い付いてきた。

 公園を出て橋を渡り右折してしばらく行くと葛西橋通りに出る。左折して直進すると右手に冬木弁天堂が見えてくる。宝珠山冬木弁財天は元近江商人の材木商冬木五郎左衛門が深川を開拓したのち、琵琶湖竹生島の弁財天を自宅に勧請したのが初めで、後宝永20年(1705年)に現在地に移したと伝えられる。深川七福神のひとつに数えられている。狭い境内だが整備されていて、入口の八重桜も盛りであった。

 弁天様のお姿は見えなかったが取り敢えず参拝の後、葛西通りを左折して深川成田不動尊に向かう。首都高9号線の下をくぐり、八幡堀遊歩道への道路標識を左に見送ると間もなく不動堂の裏口である。ここは成田山新勝寺の分院となっていて、この日も大勢の参詣者がお参りしていた。隣は深川公園でここにも八重桜が咲いていた。なた、正面左手には永代寺がある。富岡八幡宮と同時期に創建され広大な寺領を持つ真言宗の寺院(本尊は歓喜天)であったが、火災で焼失し後年現在地に再建されたという。門前仲町の地名の由来となっているが、立ちよりは割愛し手前から左折して富岡八満宮へ。

 富岡八幡宮は寛永4年(1624年)に長盛法師が干拓地に創建し、以後徳川将軍家の保護を受け、庶民の尊崇を受け継いできたもので、祭神は応神天皇、相撲発祥の地と言われ、境内には横綱力士碑や大関力士碑がある。深川七福神のひとつ恵比寿神が祀られている。門前には名物の「深川めし」を売る店や茶店などがあり賑わったいるが、そちらへは向かわず横綱力士碑にお参りして元の道に戻った。

 冬木弁天の手前で左折、葛西橋通りを直進すると400mほど先で清澄通りにぶつかる。右折して清澄白河方向に行くが右手一帯には寺社が多い。100m足らずで右手に心行寺がある。浄土宗で寺号は双修山、本尊は阿弥陀如来であるが、六角堂には深川七福神の内福禄寿が祀られており、その前に石の福禄寿像が安置されていた。また、裏手の墓地に五世鶴屋南北(四谷怪談の作者四世の孫・河竹黙阿弥の師)の墓があった。

 心行寺を出て400mほど行くと仙台堀川に架かる海辺橋だが、橋の南詰め左手に松尾芭蕉の高弟・杉山杉風の別墅「採荼庵」の跡があり、「奥の細道」の旅立ちにあたって芭蕉が詠んだ「行春や鳥啼き魚の目は泪」句碑や芭蕉の銅像が置かれていた。

 海辺橋を渡ると左手に清澄庭園の塀を見ながら100mほど進み右折する。約150mほど先を左折するつもりが少し手前で左折したため、道に迷って木更木橋の北詰めに出てしまった。

 反対方向に戻って少し行った先の左手が圓珠院。日蓮宗の寺院・法苑山浄心寺の塔頭のひとつで深川七福神の内、大黒天を祀っている。御堂を覗くと厨子の上に小さなお像が拝めた。

 圓珠院を出て北へ進む。やや狭い通りでその上工事中のところもあり車に注意しながら200mほど行き、左折するとすぐ右手に深川江戸資料館があった。江東区が管理・運営している博物館だ。天保時代の深川の街並みを再現した施設。観覧料400円を払い館内に入る。時すでに10時50分。11時半集合と決めて各自自由に見学。地下に降りると地上2階まで吹き抜けとなっていて、商店や職人の仕事場、長屋などが配置され、深川の船宿や船着場などがあって、昼と夜の時間経過がわかる仕掛けになっていた。

 資料館の北側に霊厳寺がある。野田さんの提案で立ち寄ることに。この寺は浄土宗で山号は道本山、本尊は阿弥陀如来。寛永元年に霊厳上人を開基として霊厳島に創建されたが、明暦の大火の後現地に移転したという。ここには寛永の改革で名高い老中首座の松平定信の墓所がある。訪ねてみたが墓所の入口は閉ざされていた。

 南側には深川出世不動尊がある。長専院不動寺という浄土宗の寺院で霊厳寺の別院になっている。「お参りするのが遅すぎたが、孫の出世を御願いしよう」との声が聞こえた。

 次の目的地「清澄庭園」で昼食と決めたが「弁当を持ってきていない」という人たちが数人いたため清澄通りに出たところにあるコンビニに立ち寄って各自弁当と飲み物を仕入れることにした。なお、通りへ出る角にある店で売っていた「深川めしの素」を土産に購入する人もいた。

 清澄通りを渡って回り込んだ先に「清澄庭園」の入口があった。「清澄庭園」は江戸の富豪・紀伊国屋文左衛門の別邸であったが、後に久世大和守の下屋敷を経て明治11年に三菱財閥の岩崎弥太郎が周辺10万㎡を買い取り大改修を施して、社員の慰労や賓客の招待等に使用していたもので、隅田川の水を引き入れ大泉水・池を配した回遊式築山・山水庭園で周遊路には諸国の名石を配している。入園料(65歳以上70円)を支払って庭園に入るとすぐ左手に大正記念館がある。もとは大正天皇の葬儀場を移築したものであったという。大正記念館と涼亭とは集会場や食事処として貸し出されている(要予約)。時刻は正午をやや廻っていたので昼食をとることに決め、大正記念館の左手のベンチがいくつかある休憩所で弁当を広げることになった。目の前の池にはカル鴨がいて、岸辺で休んでいるつがいも見られた。

 昼食後、池を巡り一周する。中の島の桜はやはり葉桜になっていた。その先の築山(名称=富士山)はさつきやつつじが見事らしいがまだつぼみの状態であった。あたりには高層ビルが少ないせいか、街中とは思えぬ雰囲気で、新緑が目に染みた。

 芭蕉の有名な「古池や…」の句碑や庭園の由来を記した碑などを辿り、清澄庭園を出たのは12時50分。隣接する清澄公園に立ち寄ってみた。ここも「桜が満開ならさぞかし」と思われる広びろとした公園だ。八重桜や藤棚などもあって、葉桜の下にシートを広げている一行も見られた。

 北へ200mほどの角に深川稲荷神社がある。宇迦魂命を祭神とする小さな神社だが深川七福神のうち布袋尊の石像を安置している。この裏が小名木川で江戸初期のころから水運が盛んだったという。小名木川に沿って西へ200m先の万年橋を渡ると北詰め左手に児童公園があり、2~3人ベンチで休んでいる人がいた。そこから隅田川の川岸に降る。石段の裏手に「芭蕉庵史跡展望庭園」があったのに気づかず、右手に向かった、
  
 その先一帯が「ケルンの眺め」と名付けられている。振り返ると清洲橋が見えたが、この橋はケルンのライン河に架かる吊橋をモデルにしたものだそうだ。前方には新大橋が望めた。気持ちの良い「隅田川テラス」は川幅が広く、大勢の人が釣りをしている。河口に近いと見えて結構大型の鱸を釣り上げた人もいた。

 200mほど先でまた石段を上がり、高橋夜店通りにでた。道の両側はずっと桜並木になっているがもちろんすべて葉桜だ。わが一行はすぐに左折して芭蕉記念館に向かう。芭蕉記念館は松尾芭蕉の業績を顕彰するために昭和26年に開館、芭蕉・および俳句文学に関する資料を展示している。観覧料は200円。約30分間の自由観覧。芭蕉に随行した曾良の日記や芭蕉が持っていたというカエルの置物などが展示されていた。

 記念館を東に向かいまた200mほど先を左折するとすぐ右手に深川神明宮がある。入口には付属の「神明幼稚園」がった。ここは摂津の深川八郎衛門が当地を開拓した折、伊勢神宮を勧請したのが始まりという。深川の地名の由来となったもの。深川の聡鎮守で祭神は天照大御神。七福神のうち寿老人を祀っている。

 ここを出たのはすでに午後2時を少し回っていた。この先の地下鉄森下駅で解散となった。

 深川界隈は江戸情緒が色濃く残っており、本日訪ねたところ以外にもたくさんの見どころがあるようだ。

参加者
(坂井大和・用正靖彦・葛城征志・野田和文・松浦靖弘・松永幸一・姫野易之・溝部憲治・福島克己・山下政晴・梅谷覚雄・章代 以上12名)

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