2014年 野口旦夫理事長に捧げる言葉

石川県に籍を持つ私が地元で聞いたものに、前田侯が都から大殿様を招いた際にじかにお入り頂くは失礼と、特産の羽二重をヒノキ風呂の中に敷いてもてなしたとの大風呂敷伝説がある。そんないわれのある風呂敷に資料を一杯詰め込んで、松川正さんが卒業生を訪ねて年会費を集金されていた。

そんな頃、私は卒業年理事として野口先輩に初めてご挨拶する機会を頂いた。
理事会には有座猛・松川正・白木賢二・濱田健・大塚達雄・渡邊龍雄・種田為博・山本文義・安藤幸生・綿貫功さんら、大先輩をはじめ論客が目白押しだった。

相当な期間、会では光熱費や事務所費用の負担が大きかった。昭和60年、野口さんが理事長に就任されてすぐ、自社で事務所を引き受けようと決断されて大いに助かったのを思い出す。

野口さんが交詢社に初代理事長の篠田直雄さんをお訪ねし、ご高説を承る機会があり、私も同席を許され光栄だった。後刻「貴台のような同窓が健在することは心強く、四極会は幸いで光明がある。」とのメッセージを拝受した。

大分高商⇒大分経専⇒大分大学経済学部と変遷して行く中で初めて本格的な東京四極会会員名簿を整備しようとなり、私が命を受けて当時の新型ワープロに卒業年理事がまとめた名簿を打ち込んだ。出来上がった名簿原稿を野口さんの会社で印刷して配布した。発送業務は会社にサービスして頂いた。私は打ち込み作業のお蔭で会員のお名前を熟知することができた。会員名簿はビジネスでも同窓連携に大いに活用された。今は個人情報管理面から名簿の出番がないようで、名簿作りの煩雑さを懐かしむといささか寂しい。

名簿整備後の会員動静を伝える媒体として不定期の新聞発行が提議された。理事各位から寄せられたニュースをワープロに打ち込み、野口さんの会社のテーブルに並べてレイアウトを決め、輪転機にかけて頂いてタブロイド版の「東京四極だより」が誕生した。編集打ち合わせ時には必ずビールが理事長から出されて喉を潤した。

ほどなく文芸センスに溢れた安藤幸生さんが編集を担当、今につながる本格的新聞に脱皮させた。
野口さんの会社は中目黒駅に近い便利な場所にあって、喜子夫人の名を冠した「三喜美術印刷」と称し、野口さんの愛妻ぶりが窺えた。工場には高価な西ドイツ製のオフセット機が並び、精密機械関係の得意先が多いと伺った。

この頃から会費を集金制から銀行振込に変えるお願いを展開することとし、卒業年次別理事会を定期的に開くことに決めて意思疎通を図りつつ、名簿に基ずく会費振込の確認を進めた。理事長の旗振りで財政安定化の道が定着した。

幹事会は、野口さんの会社の会議室や、住友の増田てつ(吉の字を二つ並べた文字)三先輩にお願いして都市センターホテルを利用させて頂いた。

その頃すでに会員の主力は、高商から経専に移り、さらに経専から新制大学卒が多くを占めるような時期に差し掛かっていた。

いろんな活性化の方途が開け運営が軌道に乗ってきた頃、毎年の総会で役員改選が諮られる折、続投のお気持ちに見受けられた野口さんからご下問があった。前々任者が十数年理事長職を手放さなかった故に会員の多くが大卒なのにトップが高商になっている。「そろそろ経専卒にバトンタッチして若返りに弾みをつけるのは如何?」と進言したらOKが出て、経専のエース前川徹朗理事長が誕生することとなった。

野口さん前の理事長お二人は、退任後は一度もお見かけすることがない冷めた感じだったが、野口さんは新年会・総会に皆勤された記憶があり、四極会に寄せられた思いの深さが感じられる。

新理事長の前川さんも若返りが良策とされ、早々と荒木襄さんに出馬を願い、以来、一万田道敏さん、姫野易之さんになって現在に至るのはまさにご同慶の至りに思う。

事務所費用の合理化、会員名簿の発行、卒業年理事会の定例化、機関紙「東京四極だより」の創刊、会費の振込制導入等々まさに東京四極会中興の祖と呼ぶに相応しい改革と組織化を果たされた野口理事長のご功績は東京四極会の歴史に燦然と輝く。

いま訃報を前にして心から賛辞を送り、ご冥福をお祈りしたい。

文責・元副理事長・寺田洋太郎