2016年 山さんの旅立ちを悼みて
三年半もの間、一緒に寝起きし、勉学し、テニスをし、また一緒に遊んだ友人であった山さんこと山村洋二君が亡くなったとの知らせを受けたのは平成27年9月25日付消印のハガキ一枚であった。奥様の山村博子さんとご子息政道さんの連名に依るものだった。それは次の様なものであった。
夫 山村洋二儀 かねてより病気療養中の処 薬石効なく 8月10日 81歳にて急逝いたしました。早速お知らせ申し上げるべき処でございましたが ご通知が遅れました事を深くお詫び申し上げます。葬儀は 近親者にて8月14日 滞りなく相済ませました ここに生前のご厚誼を深謝し 衷心より御礼申し上げます。なお誠に勝手乍ら 故人の意志により 弔問 香典 供花 供物等 一切辞退申し上げております。何卒 ご高察の上 ご了承下さいます様お願い申しあげます
山さんの父上は、山村陽吉さんと云って、大分高商の第1期生である。従ってあの草場勇先生とは、同期の仲である。学生時代、山さんや浜田定俊君達と一緒に遠征して行った先は、九州内は勿論のこと乍ら、松山や宇治山田等であった。
山さんとの交流で思い出深いことがあったのは、白木原ゼミの修学旅行で、宮崎の高千穂峡に行った時のことである。同行の先生は和田幹雄先生であった。このときの余興として、今でも想い出すのは、和田先生即興の跳びはねダンスであり、十数名のゼミ全員の大拍手、喝采があったこと。宴会の後、他の者は二卓位で麻雀を楽しんでいたのだが、私と山さんの二人は、例の有名な宮崎の民謡「刈干し切り唄」を唄の上手な若い女中さんを捉えて教えて貰ったことである。
ここの山の刈干しや すんだヨ
明日はたんぼで稲刈ろうかヨ
もはや日暮れじゃ 迫迫かげるヨ
駒よ いぬるぞ 馬草負えヨ
また山さんとは、私の伯父が当時我家に寄宿しており、一緒に釣りを楽しんだことがある。或夏の頃、テニスの一年先輩であった、姫野稔さんの家に(当時坂の市に在った)確か一泊させて貰って、近くの池で泳ぐ眞鯉釣りをしたことがあった。撒き餌の故もあってか、大漁だった。
大学卒業後、山さんは日新製鋼に、また私は長浜ゴム工業に入社した。昭和35年、当時会社は長浜樹脂と称していたが、本社が滋賀県長浜から東京に移るというのを機に、私は結婚した。3月15日、我家のすぐ近くの金池公民館に於いて挙式した。
この時、親戚の中にまじって、大学二年先輩の西畠公明さんと、山さんの二人が出席してくれている。従って、山さんの結婚式の時には、私は東京から福岡の式場に赴いたものである。
また其の後、関西二七会の会合で、飲み会やゴルフ会(鳴尾CCや宝塚CC)で大いに楽しんだことがある。彼はゴルフがシングル級であり、また囲碁も恐らく二段位の実力はあったものと思う。
其の後、また山さんは日新製鋼仔会社の日本鉄板の社長に昇進された。その時、私は和歌山の地から祝電を打ったことがある。
後年の昭和37年、我が社の長浜樹脂は三菱樹脂と改称され現在に到っている。
更に付け加えるならば、其の後あの和田幹雄先生のご子息が、三菱化成に入社されたということを四極会後輩の社員より聴いたことがある。
私が大阪の高槻から、娘二人の要請もあって、この現在の千葉に移住して来た、平成16年閏日以降でも、二度ばかり我家に来て呉れた。一度目は、引っ越してきたばかりの年の六月のこと。この時は女房の淳もまだ何とか健在で、近くに住む娘の緑も呼び寄せ、歓待したのだが、この時から既に山さんはパーキンソンの症状が見られていた。
二度目は、浜田定俊君が所用あって、八街の長男の処に行くので、その折りに逢いたいとの話があり、山さんにも来て貰って大いに歓談したものであった。平成17年、丁度敬老の日であった。
浜田君も、既に平成18年春分の日に旅立っており、今回はまた山さん。淋しき限りである。山さん安らかにお休みください。 合掌。
文 渡邉 俊彦(第31回)