梅花薫る三溪園の古建築を探訪 (第70回 歩こう会)
横浜市の本牧にある三溪園は生糸貿易で財を成した事業家・原富太郎(三溪)が明治39年(1906年)に一部公開した庭園。175,000㎡に及ぶ広大な園内には京や鎌倉などから移築された歴史的な建造物十七棟が配置・整備されている(内、重文指定は十棟)。 昭和28年に横浜市に譲渡・寄贈されたもので、公益財団法人「三溪園保勝会」が管理運営しており、平成18年には国の名勝に指定されている。
実は昨年3月に、第64回歩こう会で企画したのだが、幹事の体調不調のため直前になって中止した経緯があったもので、改めて今年同時期に再チャレンジしたものである。
2月28日(土)、天気は良かったが風がやや強く、少し肌寒い。午前9時半前にJR根岸線・根岸駅に後記の16名が顔を見せた。
9時34分発の横浜行き(横浜市営バス)に乗ったのだが、これが超満員で扉が閉まらないほどのすし詰め状態。途中のバス停でもさらに乗ってくる人があり、ついには摘み残しになった。本牧バス停に着いたが我々の他は降りる人がまばらで、バスは大勢を載せて走って行った。混んでいたせいか運行時間が倍近くかかり9時50分を過ぎていた。
三溪園に向かう道に迷い、ひとに訊ねるなどちょっとうろうろしてしまったので、予約の10時に間に合わないのではと心配したがぎりぎりに三溪園入口に到着。入園料は500円(65歳以上の割引は廃止)だったが回数券で400円で入園できた。
事前にボランティアガイドを御願いしていたので待っていて「11時半過ぎ頃までに正門に戻れるよう案内しましょう」と先に立って誘導してくれた。内苑出入口に向かう通路の左は大池、右は蓮池になっている。夏には蓮の花が丈高く咲くとのことで、大池にも蓮を植えたが潮風で育たなかったらしい。
内苑入口手前にあるのが鶴翔閣。明治35年に建てられ原三渓の住居で、関東大震災や第2次大戦で被害を受け、数度改築されたが平成12年に元の姿に復元された。客室棟・茶の間棟・楽室棟など三棟からなる290坪の広大な住宅で平屋建てとは思えぬ高い屋根の建物だ。横浜市の有形文化財に指定されている。客室棟では若い芸術家(横山大観や下村観山など)や政治家・文学者などに研修の場所を提供し合わせて経済的な援助を惜しまなかったそうだ。現在は茶会や音楽会等に貸し出しており、結婚式なども行われている。この日も茶会が開かれていたこともあって内部には入れなかった。鶴翔閣のボイラー室はドイツ製とのこと、またその先には女中たちの宿舎もあったらしい。
内苑入口にある「御門」は扉や段差のないいわゆる「薬医門」で鏡柱と控え柱があり、軒が入口側に広くなった瓦葺の堂々たる門だ。京都の西方寺から移築したものという。中に入ると広い石畳が続いていた。
左手には三渓記念館(原三渓に関する資料や自筆の書画・ゆかりの作家の作品等展示)があるが時間の都合で割愛。右手の塀の中には白雲邸がある。大正9年に原三渓の隠居所として建てられたもので、三渓は晩年の20年を夫人とともにここで過ごしたそうだ。(横浜市有形文化財)ふだんは非公開だがガイドさんの説明によると、ここで高円宮妃久子さまの撮影された野鳥写真の展示(2月11日~19日)があり、オープニングセレモニーには久子さまも出席されたとのこと。
この先の右手に芝生が広がり臨春閣を望む辺りで記念撮影。シャッターをガイドさんにお願いした。
突き当りにあるのが旧天瑞寺寿塔覆堂で豊臣秀吉が母大政所の長寿を祈念して建てさせた寿塔の覆い堂だという。移築建造物中では最初(明治38年)に京都大徳寺の境内から移築されたらしい。迦陵頻伽や蓮華の装飾が彫られている。(重文指定)
隣接の蓮華院は大正6年に建てられた茶室で、二畳中板の小間と六畳の広間・土間を持つ。土間の中央にある太い柱と壁の格子は宇治平等院の木材を使用と伝えられている。当初は今の春草蘆の場所にあったが戦後竹林のある現在地に移したものだという。
右手に少し行くと池に掛った架け橋があった。途中屋根つきの休憩所が設けられていて、ガイドによると片方は池越しに名月を眺めるため、反対側は紅葉を鑑賞するためとのことだ。
臨春閣は前に池をめぐらした3棟の建物が雁行型に折れ曲がった形に配置され、桂離宮とも並び称される代表的な数寄屋風書院造りである。(重文指定)バックの岡を背景にしてうっとりするほど美しいたたずまいだ。三渓が明治39年に大阪の春日出新田会所を買い取り11年かけて移築したもので、三渓は死ぬまでこの建物は豊臣秀吉の聚楽第・桃山御殿の遺構と思い込んでいたらしい。現在の通説は「紀州家の別荘・巖出御殿だったもので徳川吉宗も幼少時に滞在した。」というものであるそうだ。内部には狩野派の絵師(狩野探幽ほか)の襖絵(記念館に収蔵)があったり、長男の結婚式もここで行われ、芥川龍之介も出席したとのことだ。中に入れないので屋敷の周りを一回りしたが中は薄暗くてよく見えなかった。(火災防止のため電気も引いていないとのこと。)踏み石が濡れていて滑りそうだった。
続いて月華殿に立ち寄る。石造りの階段を上り詰めたところだ。この階段にはかって屋根がつけられていたのだがが戦時中爆風で壊れたという。月華殿は宇治の三室戸寺の客殿であったがそもそもは徳川家康が伏見城内に伺候する諸大名の控室として設けたものだそうだ。障壁画は桃山時代の画家・海北友松と伝えられている。(重文)大正7年頃に三渓が作らせた一畳台目の茶室・金毛窟とつながっている。隣接する天授院は大正5年に鎌倉から移築した禅宗様式の建物で三渓の持仏堂にしていたそうだ。(重文)辺りにはもみじが多く植えられており、紅葉の時期の美しさが想像で来た。
天授院の脇から流れている小川は三渓の時代から池の水をドイツ製のポンプで汲み上げているという。石段と並行している坂道を下る、小橋を渡ると右手にあるのが聴秋閣。
聴秋閣は三代将軍徳川家光が上洛の折に使用するため、佐久間将監に命じて二条城内に建てさせ、後に乳母であった春日局に下賜したものだが、その後たびたび移築を繰り返して、大正11年原三渓が旧二条基弘公爵家から譲り受け、新宿区から移築したもだ。この建物が内苑では最後に移築された建造物であるとのことだ。
二層の楼閣風の軽妙な意匠で知られる。一層は茶室として使用されたものらしく、その左右と二層が3種の異なる屋根で構成されており、その位置も微妙にずれている。内部にも工夫が見られ、洒落た書院造だが、前庭の小渓谷と調和して落ち着いた雰囲気であった。(重文)
隣接するのが春草蘆。もともとは月華殿に付随する茶室だったものだが、伏見城内から宇治三室戸寺金蔵院へ、さらに大正7年に月華殿とともに三渓園に移築された。ひなびた檜皮葺き三畳台目席の茶室で信長の弟織田有楽斎の作とも言われているらしい。窓が九つあるため九窓亭とも呼ばれるという。軒がやや傷んでいた。
内苑の建造物十棟すべてを見終えたのが、ガイドの懇切丁寧な説明も関わってすでに11時45分になっていた。昼食場所を中華街に12時40分と予約していたので、時間の押してきたのが気になり、外苑は一部のみを見てあとは次回以降に譲ることにした。
旧天瑞寺寿塔覆堂の脇を通り、蓮華院を抜けた先が梅林になっていて、白梅が見ごろだった。顎が緑色の緑顎梅があり、こちらは盛りを少しすぎていた。
ここからやや急な山道を登って行くと、右方向は松風閣。左への道に進む。突き当りが旧燈明寺三重塔。大池越しに見る三重塔は三溪園のシンボル的な存在だが、近くで見ても精巧な作りが見事だ。老朽化が進んでいて、数年かけて修復する計画があるそうだ。室町初期の建築と言われ、もとは京都の燈明寺(日蓮宗の寺院・現在は廃寺)にあったものを大正3年に三渓が移築した。(重文)ここから左手下方に見える旧燈明寺本堂(重文)の方は昭和62年に移築されたそうだ。
石段を降りて行くと右手の梅林に臥龍梅と呼ばれる紅梅が咲いていた。あたりは紅白の梅が盛りだ。梅林を左方向に進むと初音茶屋。暖かい麦茶が振る舞われているのでご馳走になってホット一息。しかし、間もなく正午になる。ここでガイドさんにお礼を言ってお別れし、残る外苑の歴史的建造物(旧東慶寺仏門・旧矢蓖原家住宅・旧燈明寺本堂など)を横目に見て急ぎ正門まで戻った。福島家の4名とはここでお別れ。
これから公共交通機関では到底間に合わなくなったので、客待ちしていたタクシー3台に分乗して中華街へ。西門から関帝廟通りへ出て何とか約束時間に「品珍閣」に到着。昼食を兼ねた懇親会の後本日の御開きとなった。
参加者
(永野基昭・葛城征志・松浦靖弘・松永幸一・溝部憲治・生田陽代・田川俊夫・福島克己・昭子・鈴木和子・木下重子・土田謙二・松岡幸秀・美知子・梅谷覚雄・章代)以上16名
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